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LIFEの真ん中に「if」というのがありまして

LIFEの言葉の真ん中に「if」がしっかり鎮座している。
L「生きて」、E「終りを迎える」、その間に「if」がある。
だから、人生というやつは、その終りを迎えるまで「もし」「万が一」の連続なのだよ。
としたり顔で説教される。
しかし、この解釈は間違いだ。

「もし」はない

人生で起こることに「もし」はない。
それは全て必然だ!などと安っぽい自己啓発的な方向に足を踏み入れるわけではないが。
もとより偶然も必然も、そのボーダーはあいまいだ。
それが起こった後に、たいして話題のない相手と酒を飲まなきゃいけない時に暇つぶし程度にあーだこーだと色分けしているだけ。
偶然、必然の色分けはただの遊びに過ぎない。
それはシミュレーションとも程遠い。

だからリアルな選別は、実際に起ったこと、起こらなかったこと。
この2つの線引でしか存在しない。

「万が一」は起こり続ける

しかし、起こることは「万が一」の連続だ。
数ある可能性の中から、なんだったら人間という脆弱な存在の叡智を超えた中から「万が一」がリアルに発生する。

思いがけないことが、予想もしなかったタイミングで、目の前に現れる。
どう考えてもそうなるであろう状況が、いつまでたっても、留守電にメッセージを残しても、目の前に現れる気配すら見せることもない事も含めて。

可能性という意味では、それは「万が一」どころではなく、もしかしたら億とか兆とかの選択肢の中から唯一つ選ばれたもの。
しかし、起きたか起きなかったかという観点では、それらは等しく50%づつの可能性を持っている。

こうした「万が一」の連続で、今ココに僕らは立っている。
奇跡的な確立の中から起った事象と、出会いと、別れと…
そうしたものの連続を経て、僕らはココに立っている。

それは「もし」ではなくて、それしか起こらなかった。
起こりうる可能性は、それこそ万の選択肢があっただろう。
しかし、その中のひとつだけが起こり続けて今がある。

だから人生は奇跡なのです!日々に感謝!
などというつもりもない。
みんなに奇跡が日常で起こり続けているのだから。
こうなると株価を上げすぎている奇跡という言葉も、適正な価値に引き下げるか、次の辞書の改訂では、その定義すらも見なおさなければならないだろう。

僕らはそれぞれの奇跡的な経路を経て人生を送っている。
それは書籍にしても退屈だったり、映画化するためのキャッチコピーさえも見つけられない。
凡庸だが、ときにスクリーンの中で起こることよりも、ことさらに苦く、時に甘い。
スクリーンでは表現できないあたたかみを感じることもあり、2時間という上映時間では消せない傷を負うこともある。
Oh my gosh!と感謝して、Oh my gosh!と吐き捨てる。

起こりうることは想像できないし、起こらないという事態も織り込み済みだ。
予想できた幸運に感謝した日もあるだろう。
予測できない不幸に呪った日もあるだろう。
今までもそうであったように。

ハラをくくろう

だからハラをくくろう。
「if」も「万が一」も奇跡も全て織り込んで、それがLIFEなのだから。
いつ始まったのかの自覚はないが、いつか終わることだけは知っているLIFE。

一喜一憂してもいい。
必要以上に喜んでもいいし、必要以上に落ち込んでもいい。
それは今までも予想しないタイミングで、日替わりですらなく、なんだったら同時に起った。
それは、みなさん、よくご存知なように。

だからそうしたものだと腹を括って、上映時間を知らされていないこのマイナーで凡庸な映画を楽しむしかないのだろう。
そうしていつかアチラにいったなら、辛口レビュー記事でも書こうじゃないか。

 

Filed under: 独白

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「タフでクールで そしてヒューマンタッチ」Reblogger in Tokyo

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