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娘の受験とライフログそしてココロクロニクル

大学受験はいよいよ佳境。
当の本人の娘は張りつめているような、ぼんやりしているような。
まあ、彼女からすれば、当事者以外はのんきなことだと嘆いているかもしれないが。

はて、自分の頃はどうだったのかと思いを馳せてみると、全くもって思い出せない。
この授業もあるようなないような、まだ在校しているような卒業したような不思議な時期。
僕は何を考え、どんなスケジュールで動いていたのか全くもって記憶もなく、ソレを探るための手がかりとなるエビデンスもない。
何らかの不安も苛立ちもそして一筋の希望ももっていたはずだ。
そりゃあ高校生だ。
青春ど真ん中だし、当然だよね。
ところが全く思い出せない。
娘と僕とでは、時代が違う環境が違うそして何よりその前に別の個人である。
あれやこれやとアドバイスしたいわけではない。
少年のOBが全員、大人になれるわけではない。
いい年こいて大人試験に不合格の僕は、長い浪人中。
なんだったらこのまま、大人を飛び越して老人へ飛び級しそうだ。
こんな僕が、ひとさまにアドバイスなど出来るわけがない。
たとえ自分の娘だとしても。
僕も彼女もそのときそのとき誰も経験してこなかった新しい局面にぶち当たりながら、選択と決断を繰り返して生きていく。
この先ずっと。
そういう意味では、ある時代は戦友として生きていくのだ。
であれば、こうしたほうがいいああしたほうがいいなどと、自分の子供という弱い立場のものにしか通用しない安い上目線で、気軽に言えるわけがない。
今時能天気にそれを口に出来るのは、にわかサッカーファンの代表監督批評くらいだろう。
永遠に代表監督になることのない。

アドバイスをする気もないのに、なにをそんなに残念がっているのかと言われればひとつだけ。

それは、シェア。

今風な単語を使ってアレだけど、今彼女が感じているものと、当時僕が感じていたもの。
その同じ感情の地平に経てば、感情の共有ができるんじゃないかと思ったわけだ。
娘はそんなもの望みはしないだろうけどね。
そりゃあ父親と感情の共有なんて気持ち悪くてたまらないだろう。
僕が逆の立場だったら、心底願い下げだ。
しかし、多くを語らなくとも、上手く表現できなくとも、「ああ、わかるよ」という場面や相手がどれほどココロを柔らかくしてくれるか。
これはいくつになっても、どんな場面でも変わらない。
そして、その相手と場面になかなか恵まれないのもまたまた普遍の原理だ。
いちばん、ココロがトゲトゲするときに傍らに立ち、同じ方向を見ながら「そうだよね」と頷き合えることがどれだけ幸福か。
だから今時のセンター試験の仕組みもよくわからない父親としては、せめて、以前の自分の感情を思い出そうと試みたわけだ。
そうして、祈る以外に唯一出来そうなことも、思い出せないという事実により不可能になった。
ライフログの重要性と言うけれど、今回ほど身にしみたことはない。

感情の記憶。

これを自分で管理しておかないと、十代のもっとも多感な頃に感じたアレコレですら、綺麗に消え去ってしまう。
もちろん、消え去ってほしいツラいこともあっただろうが、その真逆のピカピカとした瞬間のほうが遥かに多かったはずだ。
いまでは、それがあったことすら不確かだ。

僕が若いころにライフログを残そうとすれば、それこそ日記帳くらいしか存在しなかった。
そもそも、ライフログという言葉すら存在していなかった。
今は、あらゆる方法でライフログを残せる環境が整っている。
やるべきだと思う。
だから、このブログのタイトルを決めたんだよ。
「ココロクロニクル」
「ココロ」+「クロニクル」
「心」+「年代記」
すなわち感情の記憶を大事に保管しておこうよ!という意味で。
振り返るために生きているわけじゃないけれど、振り返りたいときにきちんと振り返るコトが出来るようにしておくべきだと思う。
そうすれば、誰かさんを柔らかく温めることが出来るのかもしれない。
そして自分自身もね。

Filed under: 独白

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「タフでクールで そしてヒューマンタッチ」Reblogger in Tokyo

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